さて、今回は前々から書いてみたかったテーマで書いていきます。ずばり、『福祉の仕事』に『ボランティア精神』は必要なのかどうか、です。
結論から言うと、多くの場合期待されている『ボランティア精神』は不要だと結論付け、その理由を書いています。しかし、それだけではない部分もあり、それを可能な限り追っていく記事です。
まず、はじめに
『福祉』という言葉から、どんな印象を持つでしょうか。「あたたかそう」「やさしそう」「親切」そんな言葉が浮かんできそうですね。そして、その印象に付随するように、『ボランティア精神』という言葉が湧いてくると思われます。
「福祉なんだから、ボランティアの気持ちがないと!」と言われたことがある方も少なくはないと思います。
それでは、この『ボランティア精神』の正体とはなんでしょうか?ここでは、それを掘り下げて考えてみたいと思います。そして、その正体のしっぽを掴みかけたとき、みなさんは何をどのように感じるでしょうか。
さらに、『ボランティア精神』について考えることで、福祉の仕事に求められていることと、福祉業ならではの特色もわかってくるはずです。
それでは、さっそく見ていきましょう。
一般的なボランティア精神とは?
まず、一般的に言われる『ボランティア精神』について考えてみたいと思います。それは、一言で簡単に言うと「見返りを求めない無償の奉仕活動」となります。もう少し詳しく言うと、自分の体と時間を使って、他の人のためになることをすることです。
現在では、ボランティア団体が数多くあり、生活の中でお世話になっていることも少なくありません。例えば、私の住む地域では、ボランティアの方が朝の小学校通学の見守りをおこなったりしています。親としても、非常に安心で、助かっていると感じる活動です。
以上のようなことを、進んでしてくださる方の心の中に、『ボランティア精神』は宿っていると考えられます。活動を通じて、「ありがとう」という感謝が嬉しかったり、日々のメリハリになったりするという声もあります。
この場合の『ボランティア精神』は、諸々のバランスが良いと思われます。例えで出した「朝の見守り」に関して言うと、まずそれは「義務ではない」というところが大きいでしょう。
「義務ではない」が故に、ボランティアをする側も、(見守りは真剣におこなってくれていますが)気持ち的にはプレッシャーが少ないと思われます。何故かというと、私の地域でおこなわれている見守り自体は、ボランティアの方がいなくても成立する状態、つまり、同時に学校やPTAでも見守りをしているからです。
そのことは、ボランティアする側にはいい作用が働いていると思います。過度なプレッシャーがない程度に、そして、『自分が他の人のためになっている』という実感を損なわない程度に、自らのペースで取り組むことができるからです。
もちろん、かなり攻めたボランティア団体もありますし、ボランティア自体そのようなものではないという話はよくわかった上で、現在多くの方が感じている『ボランティア精神』を理解するために、敢えてこのような例え話をしました。
このことから導くことができるのは、『ボランティア精神』は、『ボランティアする側の余裕があってはじめて実感できる類のものではないか』ということです。
このことを踏まえて、次のセンテンスでは『福祉の仕事』における『ボランティア精神』について考察していきます。
福祉の現場でのボランティア精神とは?
先ほど、ボランティアは「無償の奉仕活動」と説明しました。しかし、福祉の現場でのボランティア精神を考えるときに、この「無償の奉仕活動」という前提は崩れます。何故かというと、どんなことでも、仕事としておこなっている以上、無償ではないからです。
つまり、仕事の現場では、ボランティア精神は存在しない…?と考えてしまいそうですが、冒頭にも述べたように、「福祉=ボランティア」という考えをする人も数多くいます。それでは、その人たちが、『ボランティア精神』をどのように考えているか、想像してみましょう。それが、現在の『福祉の現場でのボランティア精神』と言われているものの正体のはずです。
結論から言うと、それは自己犠牲と言えるものかもしれません。例えば、サービス残業がそうでしょう。休日出勤などもそうですし、有給が取得しにくい雰囲気で、それを我慢していることも当てはまります。本来はしたくないけど、少し我慢(自己犠牲)すればなんとかなる…そんな状態です。
そして、実際問題そのような職員に支えられている事業所が多いことと思います。給与には反映しない部分、つまり無償の奉仕活動と言う位置づけです。この場合は、『我慢して他人(事業所)に尽くすこと』が『ボランティア精神』になってしまっています。
もう一つ、福祉の仕事で存在する『ボランティア精神』があります。それは、利用者や家族の要望を叶えていきたいという気持ちから、事業所が職員に自己犠牲を強いてしまうこと、または職員が自発的に自己犠牲をしている状況です。。
例えば、あるご家族から「施設に行くための、朝の送迎時間を早めてほしい」という依頼があったとします。事業所としては、職員が少し朝早くから出勤しなければならず、断りたいという気持ちがあったとします。しかし、一人の利用者を失うのが惜しいという理由で、その話を受けたとします。
すると、その事業所の職員は、15分早く出勤することになったとします。ある職員は、子どもが学校に出かけてから自分も出発していましたが、それができなくなって、子どもに鍵を預けて自分が先に出るということにしたとします。本来、安全面からそれはしたくなかったのです。
これは、『ボランティア精神』でしょうか。いえ、これは『ボランティア精神』のベールを被せた、ただの自己犠牲です。そして、このような状態にまみれている事業所が、うちは『ボランティア精神』があるとして、職員にもそれを強いている現状はあり得るでしょう。
この見せかけの『ボランティア精神』が旺盛な事業所は、利用者からの人気も高いと思われます。一言お願いすればやってくれくれるわけですから、何かと都合がいいわけです。ただ、職員側からすると不満かもしれません。
先の例で述べた、学校の通学時の見守りとこの状況は大きく異なります。自らが望んでやっていないことを、『ボランティア精神』と勝手に定義づけられているからです。つまり、自らの気持ちの中に、自己犠牲の気持ちの方が強くなったら、それはもう『ボランティア精神』でもなんでもないのです。誰が何と言おうと、ボランティアかどうかは自分の中で決まることです。
この、「 ボランティアかどうかは自分の中で決まる」ということに関して、事業所や施設の中でも、(施設や利用者・家族の)要望を受けることで、それが仕事のモチベーションに繋がっている人も少なからずいると思います。
簡単に言うと、 (施設や利用者・家族の)要望を受けることで何らかの自己犠牲をしてしまっていたとしても、要望に応えて自分を変えていくことに苦痛を感じず、それが「やりがい」に結びついている人も一定層いると思われるわけです。これは、私も過去にそのように思っていたことがありますので、その考えに陥ることは十分にあり得るのです。そして、その考えのまま仕事をし続けると、自分が潰れてしまう可能性もあります。
これは、「福祉の仕事」=「自分のことは後回しで、まずは目の前の人を助ける」というもので、一見正しいようですが、後々歪みが生じてしまうモデルです。
先に、『ボランティア精神』は、『ボランティアする側の余裕があってはじめて実感できる類のものではないか』と仮に定義しました。この定義からすると、これまで記した『ボランティア精神』はすべて該当しません。つまり、「福祉の仕事の現場では、ボランティア精神は存在しない…? 」ということが真実味を帯びてきました。これは、次のセンテンスでもう少し慎重に検討していきましょう。
もちろん、言うまでもなく、利用者・家族の要望に応えることは大事です。それを考えていくことが、この仕事の醍醐味です。ただ、その要望を受けるとき、職員の自己犠牲に支えられて提供するのは、少し違うのではないかと私は思うわけです。
福祉の仕事をして、自己犠牲を続けてしまうと燃え尽き症候群になる可能性もあります。そのことについて書いた記事もありますので、是非ご覧ください。
利用者側は、ボランティア精神をどう捉えているのか
福祉の仕事の現場では、ボランティア精神は存在しないのでしょうか。今度は目線を変えて、利用者サイドから考えていきます。
ここでも結論から言うと、利用者やご家族は福祉サービス事業所や職員に対して、「福祉に携わる人たちは、ボランティア精神を持っているであろう」と思っていると思われます。しかし、その気持ちを自覚しているわけではなく、ほとんど無意識の中でそう思っていると思われます。
私も、かつて家族として福祉サービスを使っていたことがあります。そのことを思い出すと、その事業所、そして職員さんに対して「福祉の気持ちをもって、我々家族に接してくれている」と思っていたことが自分の中でわかってきました。
つまり、その事業所や職員さんに対して、「福祉の気持ちをもって、我々家族に接してくれている」=『ボランティア精神』を持っている、と思っていたのです。
もちろん、「無償の奉仕をしてくれる人たちなんだ」と思っていたわけではありません。先に述べたように、ほとんど無意識にそう思っていただけです。
そしてその気持ちからでしょうか、その事業所に対して様々なお願いをしてきたことも、あとになって思い出してきました。ひょっとしたら私たち家族は、「その事業所は福祉サービス事業所だからボランティア精神があるはず。だから、いろいろお願いしたら融通を利かせてやってくれるだろう」そんな気持ちがあったのかもしれません。
もちろん、過度な要求はしていなかったと思います。それでも、ひょっとしたら、そのお願いの中に「その事業所の職員の自己犠牲」を強いてしまうようなものがあったかもしれません。いつも快くお話しいただきその影を感じることはただの一度もありませんでしたが、その可能性はあります。それは、私が福祉の仕事をするようになってから、はじめて気が付いたことでした。
『福祉の仕事』に『ボランティア精神』は必要なのか?
やっとここまでたどり着きました。ここから、先に定義した3つの類型から、それぞれそこで定義されている『ボランティア精神』が適切かどうか見ていきます。
①施設勤務体制や利用者からの要望を、職員が疑問を感じつつも、自己犠牲しながら対応している『ボランティア精神』
→ボランティアは、誰かに強制されてやるものではなく、もちろん誰かに定義されてやるものでもないので、この『ボランティア精神』は、『福祉の仕事』においても一般のボランティア活動としても不成立となります。
②要望を受けることで何らかの自己犠牲をしてしまっていたとしても、要望に応えて自分を変えていくことに苦痛を感じず、それが「やりがい」に結びついている職員の『ボランティア精神』(内部定義型)
→このパターンは、実は多いと感じています。自己犠牲に苦痛を感じていないということで、一見成立しているようにも見えますが、その対応に関して、周りの職員が困ってしまう場合もあります。
このように、意識的ではなくても、周りの人に望まない『ボランティア精神』を植え付けてしまう『ボランティア精神』は、もはや『ボランティア精神』とは言えないでしょう。したがって、これも不成立としたいのですが、この気持ちがないと、利用者や家族の要望を満たすことができない場合があるので、ここでは△とします。
③利用者側から見た、「福祉サービス」= 「福祉の気持ちをもって、我々家族に接してくれている」という職員に対して抱く『ボランティア精神』(利用者定義型)
→福祉の気持ちとは、「どんな要望にも応じることではない」と私は思います。したがって、これも不成立にしたいのですが、利用者・家族側が私たちに対して抱く気持ちの中で、「福祉の気持ちをもって、我々家族に接してくれている」 という気持ちは非常に大事なものです。このことから、これも△とします。
さて、ここまで詰めてきたところですが、上記で△とした『ボランティア精神』に関しては、実は相互作用的に関連があることがわかります。
なぜかというと、利用者・家族の「福祉の気持ちをもって、我々家族に接してくれている」という気持ちを私たちが感じると、『要望を受けることで何らかの自己犠牲をしてしまっていたとしても、要望に応えて自分を変えていくことに苦痛を感じず、それが「やりがい」に結びつく』ことがあり得るからです。ややこしいのですが、この逆も成立する現象です。
『要望を受けることで何らかの自己犠牲をしてしまっていたとしても、要望に応えて自分を変えていくことに苦痛を感じず、それが「やりがい」に結びつく』という職員がいることを利用者・家族が感じると、それは「福祉の気持ちをもって、我々家族に接してくれている」と感じるはずです。
つまり、この2つの『ボランティア精神』が同時に相互作用的に存在することで、『福祉の仕事』の中にある『ボランティア精神』の本質が分かりにくくなっているのです。
この段階までで、 『福祉の仕事』の中には、その本質が非常にわかりにくい『ボランティア精神のようなもの』が存在するということまで分かりました。
次のセンテンスから、さらに深堀りして考えていきたいと思います。
『福祉』と一般のサービス業の『ボランティア精神』
ここで、さらに視点を変えて別の側面から見ていきたいと思います。それは、例えばショッピングモールのようなお店、いわゆる販売業においては、『ボランティア精神』は存在するのか、という問題です。そして、我々はお客として、お店の人の『ボランティア精神』に期待する部分があるでしょうか。
答えは、『ボランティア精神」としてお店の人が自覚する部分、そして、我々がお店の人に『ボランティア精神』として期待する部分は、『サービスの質に付随するもの』に置き換えらえているということです。
つまり、一般のサービス業では、『ボランティア精神』という言葉は存在せず、「サービスの質に付随するもの」という言葉になっているのです。したがって、『福祉の仕事』で存在すると思われる『ボランティア精神』から「サービスの質に付随するもの」を除けば、福祉特有の『ボランティア精神』と言われるもののの正体が明らかになると思うのです。
それでは、ここで指す「サービスの質に付随するもの」とはなんでしょうか?我々がサービス業に期待するもの、そしてサービス業の方が我々に提供してくれるもの…それは、そのサービスの本質以外で付随してくる、心が込められた提供方法、声かけ、態度、心遣いなどが挙げられると思います。
これらは、当然福祉サービスにも存在するものです。さて、『福祉の仕事』で存在すると思われる『ボランティア精神』から「サービスの質に付随するもの」、つまり「心が込められた提供方法、声かけ、態度、心遣い」を引いてみましょう。
残ったものはなんでしょうか?それは、利用者・家族の、生活に関しての、施設や事業所に対する『要望』ではないでしょうか。
わかりやすい例えをしてみます。近所のショッピングモールの営業開始が10時だったとします。しかし、その日は10時に行きたくても行けません。9時半なら行けるとしたら、ショッピングモールに「明日、9時半にオープンに変えてくれ」とお願い(要望)するでしょうか。
もう一つ、例えていきます。路線バスの時間が、自分の生活スタイルに合いません。あと10分早ければスムーズに出社できるとしたら、路線バス会社にダイヤの変更を依頼(要望)するでしょうか。
答えは、当然ですがそのような申し出を行ったらただの一方的な要求になるので、しない人が大半だと思います。なぜそのような申し出をしないのかというと、それは簡単には変えがたい、「サービスの質」以外の問題だと、我々が認識しているからです。営業時間も、路線ダイヤも、要望をしたところで変えられるものではないと思っているのです。つまり、「相談の余地はない」ということです。当たり前のことですが、意外と見過ごされている部分です。
ところが、『福祉の仕事』では、このようなことが日常茶飯事です。送迎時間の変更の依頼、支援時間の延長など、よくある場面でしょう。(敢えて利用者・家族にそのような申し出をさせないような事業所もあるかもしれませんが…)
つまり、福祉の仕事の特徴として、『サービス提供を柔軟に変化することを求められる』という側面があり、それが福祉における『ボランティア精神』というものとされているのではないかと思うのです。
もっと詳しく述べると、利用者側としては、「自分の都合で路線バスの時間の変更はできない」「ショッピングモールの営業時間を早めることはできない」ということを認識していますが、その対象が福祉サービスになると、「困ったときは相談して、何かしら変更ができるのではないか」と思うのです。(そんな風に思ってくれることは、とても嬉しいことでもあります)
この違いは、非常に重要なことです。一般のサービス業では変えがたいものであっても、福祉のサービスであれば相談の余地があるということなのですから。さて、次はこの「相談の余地」と利用者・家族からの「要望」に関して見ていきましょう。
ここまでの話の整理はできているでしょうか?
『福祉の仕事』における『ボランティア精神』と思われるものは、突き詰めて考えると、一般のサービス業に対しては要望することのできないような部分で、福祉サービスに特有の「相談の余地」とも言えることです。これは、利用者側、事業所側、職員側もぼんやりと、なんとなく把握している部分だと思われます。
このことを念頭に、次のセンテンスに進んでいきます。
相談の余地~ニーズとディマンドの違いとは?
お気づきになった方もおられるかもしれませんが、今までのセンテンスでは、利用者や家族からのニーズまたは要求のことを、敢えて「要望」と書いていました。ここでは、その「要望」の種類について考えていきたいと思います。そして、そのことを『ボランティア精神』に絡めて、さらに本質を探っていきます。
ご存じのように、福祉サービスの提供は利用者からのニーズ、つまりは利用者が抱える困りごとなどを解決、または手助けしていくものです。ニーズと呼ばれるものがないと、サービス提供に至りません。
一方、ディマンドとは何でしょうか。直訳すると、それは「要求」になります。よく、「ニーズ」と「ディマンド」違いを認識していかないとならない…なんて話もありますが、いかがでしょうか。単純に考えると、「ニーズ」はそれ自体が必要不可欠なもので、「ディマンド」は必要不可欠ではないけれど、利用者が望んでいるもの、かつ提供にあたり無理が生じることでしょう。
この二つをよく把握しておかないと、事業所としては大変なことになってしまいます。例えば、「要求」がエスカレートしていったら、何をどんなに対応してもキリがありません。そして、そのような状態だと、ある利用者に必要な「ニーズ」を満たすことができなくなってしまうかもしれません。
そして、このことは先の『ボランティア精神』の話と密接に絡んできます。どのようなことかと言うと、利用者の「要求」に、自己犠牲を強いながら対応していくことが『ボランティア精神』だと誤解されてしまう点、または自ら気が付かない状態があることです。
先に例を出した、ダイヤの改正について思い出してみてください。路線バスのダイヤの変更は、それ自体はなかなか申し出にくい(過剰な要求)ものですが、福祉サービスにおける送迎時間に関しては、結構頻繁に申し出がある部分です。もちろん、各利用者、家庭での都合も大いにあります。しかし、「今日は何時、明日は何時…もっと早く来てほしい、遅く送ってほしい…」このような話はたくさんあるはずです。
それに関して、すべて対応していたら、事業所してどんなに体力があっても賄いきれません。しかし、例えばお役所のような一律の対応では「福祉サービス」と言えないところも出てきます。つまり、「福祉サービス」だからこそ、そのような「要求」がでてきたと考えるべきです。先に述べた、「相談の余地」こそが、福祉の福祉らしい部分で、最後の砦とも言うものなのではないかと私は思います。
話を戻し、ディマンドと呼ばれる「要求」には対応せず、必要最低限の「ニーズ」だけを満たしていればいいのではないか?そんな考えが出てきそうですね。なんとなく上手くいきそうな気もしますが、そんな事業所は魅力的ではないと思ってしまいます。
そこで必要な視点は、ディマンドと呼ばれる「要求」の中には、どんな困りごとが隠されているか探ってみることです。ただ単にその「要求」に対応するのではなく、(つまり、ボランティア精神と呼ばれるもので対応するのではなく)その背景を考え、その部分にアプローチをしていく必要があるのです。
例えば、「営業時間より早く送迎に来てほしい!」という要求があったとしたら、職員に自己犠牲を強いてその要求を叶える前に、なぜそのような要求が出てきたのかを考えていきたいと思うのです。ひょっとしたら、その背景には別の問題が潜んでいるかもしれません。そして、その別の問題こそが、真の「ニーズ」の可能性もあるのです。
このように、利用者や家族の困りごとには、それが要望として我々に届くまでに、様々なバイアスをかけられているのです。丁寧に紐解くことで、本当に困っていることを解決することにもなります。
それを邪魔してしまう可能性があるのが、なんでも対応してしまおうとする、既存の『ボランティア精神』というものです。そして、その『ボランティア精神』は、ときに必要以上の干渉をしてしまい、利用者の自立や生活を阻害してしまうことがあることも事実です。
よって、私は『福祉の仕事』には既存の『ボランティア精神』は不要と考えます。
最後に『ボランティア精神』をもう一度考える
既存の『ボランティア精神』とされていたものは不要としたので、ここで、福祉の仕事における『ボランティア精神』を考え直したいと思います。
まず、それは事業所側が職員に対して強いるものではありません。同時に、職員としても、『ボランティア精神』で目隠しをして、その利用者・家族が抱える真のニーズを見ないふり、または考えることを放棄してはならないと思います。
利用者側としては、一般のサービス業にはない、福祉サービスに特有の「相談の余地がある」という部分が、利用者や家族が考える、施設や職員に対する『ボランティア精神』と思われるものでした。これに関しては、施設・事業所としては、相談の間口の広さは確保しつつ、訴えからから真のニーズを引き出すことが必要だと述べました。
併せて、利用者側としては、施設・事業所に対して『過剰なボランティア精神』を期待するのではなく、「相談の余地」は双方にあるということを認識することが大事なのではないでしょうか。
これに関しては、私たちのような福祉サービスの提供側が、一般のサービス業における「サービスの質」と「相談の余地」を混同したことで引き起こされたものと私は思います。雑に言ってしまうと、とりあえずなんでも引き受けておくのが福祉的なんだという誤った考えです。
私は、施設や事業所、職員、利用者・家族など、福祉のサービスに関わる人たちが、「お互いさま」の精神で、お互いに主張するばかりではなく、ときに譲り合ったり、話し合ったりしていくこと、その過程が本当のボランティア精神だと考えています。
もっと簡単に言うと、福祉サービスは関わるみんなで作り上げていくということです。そのこと自体が福祉に特有のもので、私たちがやりがいとして感じている部分なのではないでしょうか。そして、『ボランティア精神』は特定の立場の人や場所にあるわけではなく、多くの人の心の中に、余白のようなゆとりとしてぼんやりとあるのではないかと思うわけです。
この結論は、恐らく福祉がサービス業となる前、助け合いの精神で行われていたものに近いと想像します。福祉がサービス業になり、その提供の対価が「金銭と気持ちを合算した、何かしらやりがいめいたもの」と決めつけられたときから、バランスが崩れてしまった部分なのだと思われます。
よって今回の結論としては、今まで定義されていた福祉の仕事においての『ボランティア精神』は、目には見えないけど、確かに人の心の中にある、相手の立場に立つことのできるゆとりや、お互いに話し合い相談する余地であり、例えば、決められたサービス以外も必要に応じて柔軟に対応(または対応できない場合もあり)するという、ややもすると個人のさじ加減になってしまうような、余白部分らしきものだったとします。
つまり、どんなに正体を追っても、それは曖昧でぼんやりとしたものなのかもしれません。何故かというと、人間がもともと持っている、他者に対してのゆとりや余白のようなものが、『既存のボランティア精神』とされていたからです。
『福祉=ボランティア』という話から、福祉に携わる方々が、目の前の出来事に対して一歩立ち止まって考えるきっかけ作りになったら幸いです。
長い文章でしたが、最後までどうもありがとうございました!