あの日の夕飯、野菜炒め

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① 我が家の食卓

 私は、母の作る料理が嫌いだった。

 朝・昼・晩と食卓に並ぶ料理の数々。一目見たら誰かの誕生日ではないかと勘違いしてしまいそうな食卓。我が家では、それがほぼ日常だった。非常に贅沢な話かもしれないが、私はその日常の中育ってきた。

 このように表すと、裕福な家庭に育ったと誤解されるかもしれないが、決してそうではない。子ども用のゲーム機を買うのに、何度も交渉し、やっと手に入れるか入れないかというレベルだったと記憶している。

 最初の違和感は小学生の頃だった。小学校低学年の頃なら、苦手なものの一つや二つ、誰でもあるのが自然だろう。私にも苦手なものはあったが、ある朝出された卵焼きは事件を引き起こすきっかけとなった。

 見た目には普段の卵焼きと変わらない。しかし、一口食べると中にはチーズが入っていた。私はびっくりして吐き出してしまった。想像しない味に、拒否反応を起こしてしまったのだと思う。それを見た母は激怒し、吐いてしまった卵焼きを私の口に押し込めた。

 私のことを知る人なら、この話は笑い話として知っているかもしれない。実は、この件がきっかけで私は自宅、または自宅のような場所でチーズと卵が食べられなくなった。外食時には喜んで食べるのだが、家ではどうしても食べることができない。現在までも。

 詳細なエピソードは割愛するが、同じような食材に生魚がある。これも、外では気にせず食べるが、家では一切食べられないのだ。

 さて、家での食事について違和感を覚えたまま、私は中学生になった。その頃には、我が家では『食事は全員そろってから食べる』というルールが出来上がっていた。中学生くらいだと、そのルールに縛られていてもさほど支障がなかったのだが、高校生にもなるとそうはいかなくなってきた。

 そう、友人との外食の機会が増えるからだ。私は、友人からの誘いを受けて昼食、または夕食を家で食べないということを母に申し出たが、すべて却下されてしまった。「家にいる間は家の食事を食べなければならない」という趣旨のことを言われ、反発しつつも無駄な抵抗であることをなんとなく察し、それを受け入れた。

 しかし、私は同時に友人との約束を果たそうと考えていたので、熟考の結果、昼食にしても夕食にしても二回食べることにした。つまり、友人と一回、家でもう一回食べるという風にしたのだった。つまり二倍量を食べるということにしたのだが、それで解決するならそれでいいと思っていた。

 その辺りから、毎日食卓に並ぶ食事に嫌気が指してきた。心なしか、その料理の数自体も微増傾向になっていて、二回分食べなければならない私のお腹を圧迫した。そして、違和感は以前よりもっと大きくなっていた。

「なぜ、母はこんなにも毎日料理を作らなければならないのか」

 母には母のストーリーがあるのだが、後に聞いた話の断片から、以下のことを想像するに留めたいと思う。

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② ある背景

 母は、若いころにある夢を諦めて、その結果子どもを産み専業主婦となった。結婚するまで数十年勤めていた会社を辞め、主婦になるという現実を受け入れることができなかったと想像する。「こんなことより、仕事をしていたかった」という発言は、過去何度も聞いた記憶があるからだ。特に、会社を辞めるという判断は、かなり大きかったのではないかと思う。専業主婦になったものの、まるで誰かに管理されているような動きをしていたからだ。

 掃除も、洗濯も、平均以上は当たり前。思い起こせば、我が家の普段の掃除は大掃除まではいかないものの中掃除レベルであった。

 家庭生活を維持できる家事レベルが10のうち5だとしたら、我が家は常に8くらいだったかもしれない。つまり、差分の「3」はあってもなくても家庭生活に支障がない部分で、言うなれば母が手を抜こうと思えば抜ける部分であったが、そうできなかった(そうしなかった)部分であると言える。

 それは、母の母、つまり祖母の影響も大きかったと想像される。後に、以下のような発言があったことからもそれは伺える。

「自分がされてきたことしか、私はできない」と。

 とにもかくにも、料理に関しては掃除や洗濯より評価がしやすい部分だろう。そこに注力することで、母は母であるアイデンティティを維持していたと想像する。

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③ 18歳くらいのころ

 以上のことから、18歳くらいになった私は、「母は料理好きではなく、専業主婦としての自分の評価を維持するために、無理やり食事を作り、無理やり食べさせている」と結論付けた。美味しいものを食べさせたい、という気持ちはほぼ皆無で、半ば意地になっていると思ったのだった。

 どんな料理も、「大変だ」「苦労した」という言葉と、深いため息を添えて食卓に登場した。父や私は精一杯その苦労をねぎらったり、精一杯好意的な感想を述べていたが、それはいつまでもその状態は変わらなかった。

「そんな大変なら今日はもうやらないでも…」という父の提案に、気が狂ったような怒りをあらわにした母の姿も記憶に残っている。

 大変に失礼な話で、ここに書くこともはばかれるが、その時点までには私は母の作る食事のことを心の中で「●●」と呼んでいた。

心の込められていない、ただそこにあるだけの「●●」だ。工場の流れ作業で作られたコンビニ弁当の方がはるかに心が込められている、そんな風に思っていた。

 余談ではあるが、私は美味しいものを食べるのが好きだが、家での食事に執着がない。カップラーメンでもなんでも、出されたら喜んで食べる。「おかずが少ない」なんて思うことも無い。「ごはんに納豆があればハッピー、豆腐でもあれば贅沢だね」と思っている。

 それは、先に書いたように、母が料理を作っていて楽しそうではなかったからだろう。食卓に並んだ数々の料理のすべてから、深いため息が聞こえるようであった。見た目はカラフルでパッとしているが、私の目にはモノクロの食卓であった。

 故に、苦労して食事を作るくらいなら、カップラーメンをみんなで笑って食べようというのが私のモットーであると言える。

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④ 大学生になって

 私は大学生になった。大学生活なんて、もっといろんな誘いがあるから大変だろうと思われるかもしれないが、それはそうでもなかった。何故かというと、親元を離れることになったからだ。詳細は省くが、大学の近くに住むことができる環境があり、そこに移ったことで私はある程度の自由を手に入れたのだった。

 しかし、先方の事情があり、その生活は2年で終わってしまった。つまり、大学3年生の春から、また実家に戻ることになってしまったのだ。そしてやってきたのは、また食事の問題であった。この期に及んで、「家族は一緒にご飯を食べる」「家で出されたものを食べる」というルールを再提示されたので、さすがに私もそれについて激しく抗議をした。

 「激しく抗議」と書くと紳士的な話し合いのように思えるが、実際はそうではなく、ある程度の物損が生じるレベルであったことを告白する。

 その結果、そのとき存在していたルールは姿を消し、あたかも最初から無かったかのようなものになった。私は、やっと普通の学生らしい生活や交友関係を手に入れたと思った。

 同時に、食卓に並ぶ食事にも変化が見られた。おかずの数が減り、手の込んでいないものが登場することもあった。私や父は、その変化を喜んでいたと思う。これには、私の抗議もあったが、父の退職も影響があったのではないかと想像される。とにかく、母が意地になって食事を作り続けることはなくなったように思えた。

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⑤ ある日の夕飯

 ある日の夜、私が帰宅をすると母が食事の支度を始めた。時間にしたら21時頃だ。直観的に「おかしい」と私は思った。母は、夕刻の決まった時間に食事の支度をし、片付けが残るのを極端に嫌う。私の帰宅が遅いときは、作ったあったおかずをレンジで温めるのが、そのときには決まった習慣だった。

 匂いと音からすると、何か炒め物を作っているようだった。「いつもならレンジなのに?」という違和感を拭えず、私はテーブルで待っていた。

 出てきたのは、見た目には普通の野菜炒めであった。それに、ご飯。以前なら考えられない食卓の光景だ。しかし、私はそれで満足だった。「以前よりずいぶん品数が減ったな」と心の中で苦笑しつつ、そして期待せず野菜炒めを一口食べた。

「…美味い!」

言葉には出さなかったが、確かに美味かった。ごはんが進む野菜炒め。美味い。

気が付くと、母が目の前に立っていた。そして、私に尋ねた。

「ねぇ、いつもと何か違うような気がしない?」

私は、返答に悩んだ。

「いや、普段と同じだけど、なに?」

なんとなく、そんな風に答えてしまった。

母は悲しそうに、こういった。

「今日ね、テレビで美味しい野菜炒めの作り方ってやってて、それを試したの。作り置きじゃだめだから、帰ってくるまで待ってたんだけどね」

なるほど、だから私の帰宅後にわざわざ調理を始めたのか。理由が分かった。

私は言った。

「ごめん、本当はいつもと違うなと思ったんだけどね。で、どんな作り方したの?」

 私が訪ねると、母は喜々としてその野菜炒めの作り方を語った。私に美味しいものを食べさせたいという気持ちから作られたその野菜炒めは、今まで食べたどんな母の料理より美味しかった。

 それが、私にとっての「おふくろの味」となった。一生忘れない、最高の野菜炒めだった。

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⑥ 今になって

 時が経ち、私にも子どもが生まれ、普通に家族で食事を楽しむことができるようになった。私は、忙しくても、コンビニ弁当でも、簡単おかずでも、「心が込められていればなんでも美味しく食べられるんだよ」ということを子どもたちに伝えている。

 そして、子どもたちも例の「野菜炒め」が大好きである。「これ、めっちゃ美味しい!」と言われるたび、あの日の母のことが思い出される。

 子どもに美味しいものを食べさせたいという気持ち、それが込められているのであれば、どんな料理だって「おふくろの味」になり得るのだと思う。

 いつか、子どもたちにも野菜炒めの作り方を教えたい。それが、「おやじの味」になったらいいなと思いながら。

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ケニー

福祉事業所にて、療育、生活支援、余暇支援など直接支援や、相談支援専門員など相談職の経験を積み、現在も福祉に携わっています。その過程で2校の通信専門学校へ通い、福祉の資格取得もしてきました。仕事と家庭生活の両立を目指しています。

また、複数の法人立ち上げの経験から、福祉職としての働き方や組織作りにも積極的に取り組んでいます。

ブログでは、資格取得の道のりや勉強のノウハウ、そして福祉職として働いていくためのマインドを発信しています!
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